千利休の師、武野紹鴎による有名な言葉。禅僧や茶人というものは、なんとも短い言葉でゆたかな情景や感情を描写する。その感性たるや、敬服するしかない。木は枯れ、手はかじかみ、骨身に寒さが染みる。そういう情景こそが、紹鴎の目指した茶の湯の境地だそうです。わたしは茶道はさっぱりなのですが、禅宗にも「喫茶去」(お茶でも飲んでいきなさい)という言葉があるように、日本の禅と茶はいかんとも切り離しがたい。それゆえ、この言葉もいろいろと感じるところがあります。
坐禅をすると、人によってその坐相(座った姿)が驚くほど異なっていることに気付く。立派に座っている人もいれば、かちこちに固まっている人もいる。だらしない人もいれば、こじんまりと静かな人もいる。綺麗な姿勢で座ること自体はいいのですけど、きれいな姿勢で座ろうという気持ちがあるなら、当然きれいな坐相になる。頑固な気持ちで座っていれば、かたい坐相になる。やわい気持ちで座れば、やわい坐相になる。こういう在り方が良い、という自分の気持ちが、坐相に反映してしまう。
しかし、石や木は自分の在り方を気にしていない。苔は勝手に茂り、枯れていく。人も、どう在ろうと思ったところで、勝手に生まれ、成長し、老いて、死ぬ。そういうのが人の本来の在り方です。修行中、お恥ずかしいことに自分も何かしらの坐禅をしていると思っていましたが、おそらく傍から見れば、そういう姿になっていたに違いない。見る人が見れば、偉そうなやつだと見抜かれていたかもしれない。
人間の所作だとか決断とかに、思いや欲は当然乗ってくる。昔の日本の禅僧や茶人は、そういうのを美しいと思わなかったのでしょう。どこまでも自然な所作、淀みない動き、あるいはそういう本来的な人間の在り方を求めた。そういうのが、「枯れかじけ寒かれ」というような、言葉に表れているように思います。